部屋を片付けると、昔の教科書が出てきた。
読み返して見ると新しい事に気づく、と言うし、もう一度読んで見た。

『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』

あの頃は自分の中で漠然と「泡なんだろうなぁ…」とか思いつつ、少数派だったせいでクラスのバッシングを受け続けた思い出がある、宮沢賢治の「やまなし」だ。

あれ、泡?自分でナンだがちょっと違うのではないか。
一般的には「泡」だの「光」だと言われてるけど、違うのではないか。今考えると本当は、もっと別のモノではないのか?

まとめてみる。
クラムボンは「かぷかぷ跳ねて、また笑った」「殺されて死んだ」と、「観測者である蟹」によって述べられている。
そして大事な点として「このほかにクラムボンについて述べられている文は存在しない」のだ。
擬人化や比喩を持ちだせばいいと言う人も居るだろうが、もっと作品をよく読みたまえ。スペースの都合上引用はしないが、たとえば川蝉(と思われるものが魚を取ったシーンを)『それが来たらお魚が上へのぼつて行つたよ。』などときわめて客観的に、比喩を行うことなく述べている。
大切なのは、提示されている事実から、論理的に推論を構築していくことである。冒頭のクラムボンについてのシーンの後、この子蟹たちの会話がいかなるものなのか、目を見開いてよく見るがいい。文学的な擬人化や比喩など介在する余地のないほどの、高度な客観性に満ちているではないか。
何より子蟹達が直接、『青くてね、光るんだよ。』『やつぱり僕の泡は大きいね。』と、泡や光について言及しているではないか。それでも泡だと?光だと?

結論は、こうだ。
クラムボンとは、この世でたったひとつ、擬人化できない、すなわち、すでにして人である、ということだ。
そう、クラムボンの正体は、人間なのである。
蟹の兄弟たちは、見たのだろう。頭上の青い水面を泳ぐ人間を。笑い、かぷかぷ笑い、跳ねて笑う人間の姿を。青く澄んだ水中世界の美しさに感動してか、あるいは純粋に水遊びのおもしろさに打ち興じてか、思わず笑みをこぼしながら跳ね回る人間の姿を。
それを眺めつつ兄弟は、その存在に対してとりあえず「クラムボン」と名付け、
『クラムボンはわらつたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらつたよ。』
『クラムボンは跳てわらつたよ。』
と、きわめてシンプルに描写したにすぎないのだ。

とすれば、ここで大きな問題が浮上してくる。
そうすると、『クラムボンは死んだよ。』『クラムボンは殺されたよ。』も、文字通りである、ということになる。
すなわち、人間が死んだ、殺された、ということなってしまう。
なんということだ。しかし、クラムボンが人間であると判明した以上、そう考えるしかあるまい。クラムボンが泡だ光だなどといった戯言を退けたからには、この帰結に達することは、避けては通れないのだ。

子蟹たちが目撃できたということは、当然、殺人は水中、あるいはそれに準ずる場所でなされたのだろう。
光を遮るようなことを示唆する記述がないこと、逆に「にはかにパツと明るくなり、日光の黄金(きん)は夢のやうに水の中に降つて来ました。」といったような、水が澄んでいることを表す表現が多いことを考慮すると、殺人にあたって流血はなかったと考えられる。撲殺、刺殺されたのではあるまい。
シンプルに考えれば、「溺死させられた」ということになるだろう。さっきまで笑っていたクラムボンたる人間は、傍らの別の人間に、いきなり水中へと頭を押さえつけられ、もがき苦しみながら死に至ったのだ。
その一部始終を眺めていた子蟹の兄弟は、
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
と、素直に申し述べているのである。
『それならなぜ殺された。』
『わからない。』
これもまた、わかるわけがない。痴情のもつれか財産争いか、あるいは衝動的なものなのか、何にせよ殺人の動機などというものは、蟹の住む世界とはあまりにもかけ離れている。
その後につづく、
『クラムボンはわらつたよ。』
『わらつた。』
これは、殺人を達成したクラムボンがふと洩らした満足の笑みであろうか。

十二月。”クラムボン”の凶行から半年以上がたった初冬。
「底の景色も夏から秋の間にすつかり変りました。」
台風の大水で流されたか、獣や魚にむさぼられついばまれたか、遺体は影も形もない。蟹たちが棲む谷川は、今や、無残な殺人が行われた場所とは思えないような静謐と安らぎに包まれている。
「そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶(びん)の月光がいつぱいに透とほり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしてゐるやう、あたりはしんとして、たゞいかにも遠くからといふやうに、その波の音がひゞいて来るだけです。」
そんな中落ちてきた『やまなし』
父蟹は言う。『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈んで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰つて寝よう、おいで』
そうやってできたお酒とは、殺され、遺棄され、発見されることなく水へと土へと帰っていったクラムボンへの、手向けの酒なのか。すべてが終わった後、それだけをひとつの区切りにして、蟹たちの棲む谷川は、またもとの世界へと戻っていく‥‥。

 
描かれているのは、谷底の蟹という卑小な生。だが、それゆえにこそ逆に明らかになる人の世のはかなさ。人の生をも、死をも呑み込む自然の営みの大きさをここに読み取ることは、不可能ではないだろう。

秋の夜長のこれからの季節。
皆様も昔の教科書、もう読んだ本を、読み返してはいかがだろうか?

#この感想文はフィクションです


って感じの電波読書感想文を書きました。所要時間30分。まだまだ俺も捨てたものじゃないな(笑

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